コレヴェルデの聖レミジオ小教区への訪問
聖ヨハネ・パウロ二世
1990年6月7日 ローマ(*)
いつものように、多数の子供で構成された合唱団とともに小教区の劇場に新求道共同体が集まりました。賛歌は多く、子供たちによる教皇様への「襲撃」も少なくありませんでした。教皇様はいつものように、最も小さな子供に温かい愛情を示しました。 小教区のカテキスタであるマッシモさんは、教皇様に小教区における新求道共同体の現状を伝えました。
教皇は次述のように話されました:
「…現代には、子供に授けられる洗礼は一つの体験です。この体験は何よりも家族と関係の深い体験ですが、その体験を生きるためには一つの折り返しが必要なのです。ちょうど新求道共同体が適切に提供してくれる折り返しなのです。彼らが言うように、『あなたはキリスト者ですので、自分の洗礼へ再び戻る必要があります。あなたが受けた洗礼の準備を再び繰り返すべきです。求道者となって、その求道期間の中に初代教会や聖パウロが経験したような洗礼の体験をする必要がある』のです。 聖パウロが洗礼について話すときには、その言葉は素晴らしいものです。キリスト教の体験は何よりも洗礼の体験であり、その体験が他の秘跡へと導いてくれます。特に聖体の秘跡にまで導いてくれるのです。
小教区におけるキリスト教生活の実践で、最も生かされている秘跡は、この聖体の秘跡です。初聖体の準備をする子供たちさえが生きる体験なのです。それへの準備と沈思があり、それはパンとぶどう酒の中、つまり聖体の中で体験するのです。聖体とはキリストが恵みとしてまた食物として残してくれたものなのです。キリスト教の体験は確かに聖体の秘跡の体験であり、それが洗礼の体験から始まるものだとすれば、洗礼は私たちを聖体の体験にまで導いてくださるものなのです。
…ですから体験が必要なのです。秘跡を見ずに授かる恐れもあります。祝われている神秘の深みを理解せずに授かる恐れがあるのです。この体験、キリスト教的生活のこの経験的側面が必要なのです。ですから私は、信徒にキリスト教体験とその色々な側面を成長させ溢れさせるたくさんの運動や働きのために喜んでいるのです。それらはキリスト教生活の深みにまで信徒を導いてくれるからです。 このようにして人間は神に対して開かれていくのです。調和しているものとそうでないものを見分け、根本的な回心とは何であり、罪とは何であるのかを悟ります。恩恵によって義とされることが何であり、憐れみの豊かさ、愛の、三位一体の、恩寵の豊かさが何であるのか悟るのです。秘跡に基づくこれらの体験に広がって存在するのが、祈りの体験です。祈りもまた習慣的で深い経験を欠く浅薄なもの、私たちの考えやパーソナリティの表面に留まるものとなることもありえます。しかし祈りを通じて神と深い交わりを築くと、祈り自体が豊かで素晴らしい特別なものとなるのです。私たちの祈りは深められ、それを生きる必要があります。祈りの本質を排除してしまわないためには、体験が必要です。祈りは、神が祈り自体を通してくださる以外の何ものでもあろうとしないのです。
あなたがたの小教区において、これらの体験が見られることを神に感謝します。これらは小教区のために本質的であるものを促進させるのです。小教区は行政的な組織ではなく、神性な命への参加であり、キリストと聖霊を通じて三位一体への参加なのです。」
(*)オッセルバトーレ・ロマノ紙 1990年6月15・16日