聖アロイジオ・ゴンザガ小教区への訪問
聖ヨハネ・パウロ二世
1988年10月6日 ローマ
小教区において、福音宣教とカテケシスは、他の使徒職の働きより中心的に扱われてきました。祭日のミサや小教区の祝日でのいくつかの率先がなされてきた。これらの率先によって、典礼を活性化させようとして色々な試みがなされてきました。各家庭への訪問を通して「遠ざかっている人々」を探しに行きました。堅信の秘蹟への準備を強化しました。それによって堅信後の働きや結婚への準備で、続けられるようにしようとしました。 このしごとは、勤勉でつらいものでありながら実り豊かなものです。この仕事のために、新求道共同体の人々は特別な手助けとなっているのです。彼らは20年前から聖ルイス・ゴンザガ小教区にいて、今となっては約150人の大人と80人の子供の集まりである五つの共同体となっています。またパリオリ小教区からは、幾人の旅人カテキスタも出てきました。彼らはヨーロッパ、アジア、アフリカ、アメリカの様々な国へ派遣されました。新求道共同体の人々は、小教区の中庭で準備された白と黄色の大きなテントで教皇様を迎えました。主任司祭の簡単な紹介が終えて、引き続いて新求道期間の道の設立者であるキコ・アルゲヨはそれぞれの共同体を紹介しました。
教皇様は、集っている子供たちへの情愛深い挨拶を終えてから、このように話されました。
「福音書のいくつかのページで見受けられる福音急進主義は、『命を捧げる』という言葉で特に表されています。キリストは確かに先生であり、ラビであって、人々に教えました。しかし彼は、最後に命を捧げることによって全てを教えてくださいました。その死と復活によって全てを教えてくださったのです。彼の最終的な言葉が最も徹底的に完全なものとなったのです。つまり、命を捧げる、という言葉です。あなたがたの新求道共同体でこの言葉が受肉するのを目にしています。ありとあらゆる形で自分の命を捧げようとしている者はとても多い…聖霊はこれをよく知っています。
別の考察として、酵素と結ばれているものがあります。私たちはパン種の例え話を良く知っています。捏ね粉を発酵させる酵素はあなたがたなのです。教会は一つの捏ね粉であり、社会はより大きい捏ね粉なのです。教会も一つの捏ね粉なのです。
しかしこの捏ね粉は、時には不活性なものとなることもある。十分に育成されず、十分に秘蹟で栄養付けられておらず、洗礼とは何かについて十分に意識しない場合はそれなのです。洗礼は、私たち一人一人にとって最初の酵素であります。この酵素は、個人的に洗礼を生きさせます。私たちを体において、魂において、位格において、個人的に洗礼を生きさせるものなのです。私たちは、自分たちの洗礼がいかなるものか、十分に意識していません。聖パウロは、私たちの洗礼はどんなものであるのかについて完璧な指導とメッセージを残してくださいました。それにもかかわらず、私たちはその事実の、その本当の意味の下にいるのです。このようになっていますから、洗礼の意識を発行させる酵素が必要なのです。洗礼それ自体が秘蹟的な酵素だが、使徒的酵素が必要なのです。 この意識に基づくことによって、教会、教区、小教区といった捏ね粉のなかであなたがたは酵素となり、キリストが使徒たちに望んだことをあなたがたが完全に実現するのです。つまり、行くのです。キリストは、家や財産や建物を所有しなさいとは言いませんでした、彼はただ『行きなさい』とのみ仰られたのです。このように、あたがたはキリストの言葉に応じて旅人となるのです。教皇自身も、その家やバチカンやペトロ大聖があるのですが、少しだけでも旅人になろうとしているのです。
論題を出し尽くすつもりはありません。この四つの所見の中に、あなたがたは自分たちで自分自身の姿を見つけることも出来ますし、自分たちそのもの――自分たちがあろうと望んでいるもの――であり続けるための活力も見つけることでしょう。しかし私のこの言葉の中に、私の祝福に目を留めてください。この祝福が主の恵みを表明し、運んでくださることを願っています。酵素は、また旅人的生活は、主の恵みにおいて成長するのです。
先ほど話されたカテキスタは、自分の心の中で、良心の中で一つの囁きを聞いたと言いましたが、それは真実です。キコがそれを――あくまでも道具として――発したからです。しかし本当は、それを行ったのは霊でした。神の恵みと聖霊が吹き始めることによって行われたのです。彼でした、聖霊でした。聖霊が吹き始め、この人に平和をもたらしたのです。キリストは私たちを平和のうちに留まらせるために来ませんでした。彼が来られたのは、私たちに平和を――人間が望みうる最大の平和を――もたらすためなのです。その平和とは、神の平和なる和解なのです。私たちに便宜で落ち着いた生活を運び込むためではありませんでした。これは確かなのです。」